オオサカジン

  | 箕面市

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2009年11月08日

マインドコントロール

◇紅葉 更なる疑問が届いている。

『もし、政府が長期国債という形で「600兆円、700兆円」のお金を活用してこなかったとしたら、借金恐さに税収の枠内での公的支出しか行ってこなかったら、今日の「250兆円の純債権と1000兆円の個人純資産、毎年500兆円の国民総生産」を生み出すことなど、絶対に出来なかったはずや。ここが理解できるかどうかが次のポイントや。』

という山猿の話への疑問だ。これは先のSの問題提起とも重なっている部分も多いので、ここから話woつなげて行きたいんだけど、どう、山猿。

◆山猿 疑問は尽きないな。これは当たり前のことであって、これまで政治家や経済学者、メディアが長い間、間違った経済.財政論を国民にタレ流し続けてきたから、俺らの頭に無意識のうちに刷り込まれてしまっている。この「マインドコントロール」から抜け出すのは、「オーム真理教」から解脱するより難しいとさえ、俺は思うよ。だから疑問は尽きないんだ。疑問が出てこないと、いけないんだ。

Sが、「『国債を刷れ』という言葉に対して、自分も同じような考えがあって、なかなか自分の考えをまとまらなかった。最近、なんとかまとまってきたように思うので聞いてほしい。ぼくも『どうも打ち出の小槌のようで楽観的過ぎるような気もするが』という疑問があり、ずっと「国債を発行して経済成長」論の前提条件は何かを考えてきた。」

と書いている。俺もまったく同じ経過だったな。俺は、1986年以降のバブルとその後の90年代からのデフレ不況がなぜ起こっているのか、疑問でならなかった。

いろんな経済本を読み漁ったが、どの書物もそれなりに勉強にはなったが、どこか「くもの巣」がかかったようで、疑問は晴れなかった。はっきり分かるようになったのは、丹羽春喜の『日本経済再興の経済学』(原書房・1999年刊)を読み出した2000年ごろからやった。それから、リチャード.A.ヴェルナーの『円の支配者』(草思社.2001年刊)に出会い、2人の出版されているほぼ全著作を読み、政治家や官僚、エセ学者の「マインドコントロール」から徐々に解脱していった。

2007年の「サブプライムローン危機」については、当初は俺もそんなに危機感を持っていなかったが、2008年の「リーマン.ショック」以降「これは大変なことになる」と感じた。鬼塚英昭の『八百長恐慌!』(成甲書房 2008年刊)に書かれてある内容が、俺がこの間考えていた問題と一致したからだった。そして例の廣宮孝信.三橋貴明氏の著作に出会ったわけや。
その10年あまりの間に、小泉構造改革から、郵政選挙、参議院選挙、そして今回の衆議院選挙があったわけだが、自民党も民主党も「マインドコントロール」にかかっていて、「日本経済再興の経済.財政政策」を国民に明確に指し示すことが出来ないでいる。

俺はその間、機会あるときに自民党、民主党の何人もの国会議員、地方議員らと、許された時間で議論もしてきたが、彼らの「マインドコントロール」を解くことは出来なかったな。

だから理解すればするほど、さらなる疑問がわいてくるというのは、それはほんまにあたり前のことであって、この「さらなる疑問」こそが、いま議論している俺らの「宝物」であって、この疑問に徹底的にこだわりながら、それぞれの経験と知恵を絞って「この疑問を晴らす」ための協働作業が大切なんだと切実に感じるわけだ。

◇紅葉 なるほどな。知れば知るほど、疑問も深くなるって言うのは、よくわかるね。Tの疑問からまた始めようか。

①それは違うと思うな。国債は、需要を刺激するけれども、国債そのものが価値を生むわけではない。今の日本の経済力は日本人の高い技術力、仕事に対する姿勢、等々といった力が価値を作り出し、それが市場に認められたからこそ経済力に繋がったんであって、国債はそれの一助にはなったかも知れないが、国債が価値を作ったわけでは決して無い。
日本の製造業の強さも、日本人の器用さ、現場の強さとか向上心、等々といった日本人特有のものが有ったからこそと思う。

と、書いているけど、これについてどう思う。

◆山猿 「国債は、需要を刺激するけれども、国債そのものが価値を生むわけではない。」ってことは、その通りであって、「日銀券そのものが価値を生むわけではない」ということと同じや。このときの「価値」と言うのは「付加価値」のことであって、労働によって新たに生み出される、すなわち新たに生産される国民生活に必要とされる「有用価値」のことや。

国債や日銀紙幣は、それ自体に価値があるわけではなく、それらを媒介にして、Tが言うところの「日本人の高い技術力、仕事に対する姿勢」=「日本経済の潜在力」を十全に顕在化させ、国民生活に必要な「付加価値」を充分にいきわたさせるということや。

「日本の製造業の強さも、日本人の器用さ、現場の強さとか向上心、等々といった日本人特有のものが有ったからこそと思う。」ということもその通りや。

なぜ「日本人特有のものが育った」のかということは、それこそ「日本文明論」に関わる重要な問題を含んでおり、それを議題に話するのもおもしろいというか、勉強になる議題なんだけれども、今その議題には触れる余裕はない。

だけど、ともかく「日本の製造業の強さも、日本人の器用さ、現場の強さとか向上心、等々といった日本人特有のもの」を,従前のように顕在化させ、国民経済に生かすための経済財政政策こそが求められており、そのための「手段」として、「国債」なり「日銀紙幣」を政府が活用すべきだということや。

しかしながら、小泉「構造改革」と国際金融資本カルテルが進めてきた「グローバリズム」という名の市場「原理主義」の「マインドコントロール」によって、「日本の製造業の強さも、日本人の器用さ、現場の強さとか向上心、等々といった日本人特有のもの」が、どんどん破壊されていっているというのが、この間の状況ではなかったのか。

◇紅葉 「国債」が「手段」であるということでは、同じ考えやな。それでや、次の疑問についてはどう考える?

②現在、経済力があるから、そして資産があるから国債を発行し需要を喚起するのは大きな意味があることは分かった。しかし、国債はあくまでカンフル剤であって過剰な期待をするのは間違っていると思うな。今の日本は力があるから、そのバランスが少々崩れていてもビクともしないけれども。家庭とか組織と同様、収支のバランスが取れていることがやはり基本と思う。

◆山猿 「国債はあくまでカンフル剤であって過剰な期待をするのは間違っていると思うな。今の日本は力があるから、そのバランスが少々崩れていてもビクともしないけれども。家庭とか組織と同様、収支のバランスが取れていることがやはり基本と思う。」ってところやけども、ここは、Tの考えと俺とは違ってくる。

「家庭とか組織と同様、収支のバランスが取れていることがやはり基本と思う。」でいうところの「収支のバランス」って、「どの収支のバランス」のことを言っているのかということや。収支バランスには、先にも書いたように「ストック」と「フロー」の二つのバランスがある。

ストックでみれば、資産.負債のバランスシートでみれば、次のようになっている。
〈1〉 国全体の純資産    +240兆円
〈2〉 政府の純資産     -504兆円
〈3〉 金融機関の純資産   -11兆円
〈4〉 法人企業の純資産   -340兆円
〈5〉 家計の純資産    +1,067兆円
〈6〉 非営利団体      +35兆円

つまり<2>から<6>までの経済活動によって、<1>の国全体の純資産が240兆円となっているわけで、政府と民間企業、銀行が855兆円の純負債・借金をしてきたことによって、家計と非営利団体に1100兆円の純資産を生み出し、国全体で差し引き240兆円の海外金融資産を持っているということや。

何が言いたいかといえば、家計も企業も政府も、それぞれの組織内部の「負債と資産のバランス」というのか、「負債と資産」を一致させていないということや。一致させていないからこそ、経済発展ができるということなんやな。

これは、考えてみたら当たりのことであり、どの組織も家計も「収入の枠内で支出」しているわけではなく、ここでのストックで言えば、政府も企業も金融機関も家計も「貯蓄の範囲内で支出したり投資」してきたわけではない。家計でも住宅ローンを組む時は、いまある貯金以上の額を借り入れすれば、その家計の純資産はマイナスになるし、企業は銀行からの「融資.借り入れ」で運転資金を賄ったり設備投資をする。政府は国債を発行して、政府支出を増やす。

「借金」することで、はじめて市場経済に出回るお金が増える。そのお金が回りまわって(乗数効果)で、勤労者の所得や企業の利益となり、家計支出や企業投資が増えていくと経済が活性化して、フローのGDPが増えて行く。

本来はそのようにして経済は拡大していくわけやけれども、1990年代以降のデフレ不況で、日本経済は政府の国債残高が積み上がるだけで、フローの名目GDPはいっこうに増えず「低迷」と「減少」を続けている。こんな状況が10数年も続く中で、「いつまでも積みあがる国債が良い状態とはとても思えない。これではいずれ国民の預貯金を上回り、国外に頼らざるを得ない状況になると思う。」と心配するのも、「当然」というか、「無理」ないと俺は思う。

ここで、「なぜ80年代後半にバブルが起こり、90年代以降デフレになったのか」、この一番日本経済にとっての重大な問題について、いまだ一般的には明らかになっていない。表面的な分析は山ほどなされてきたけどね。これを明確に明らかにしたのが、リチャード.A.ヴェルナーや丹羽春喜の一連の著作なんだ。

国民が「赤字国債」を「心配」することは、「当たり前」であり、「無理ないこと」だということは、俺は充分理解できる。でも「理解できる」ということと、経済論的に「正しい」ということは違うから、この「経済.財政」政策っていうのは、複雑で一筋縄ではいかないんだな。ここをうまく悪用して、国民を騙し「マインドコントロール」にかけている国際金融資本カルテルの手先となっているエセ経済学者や官僚、メディア、そして政治家が確実にいる。

この「カラクリ」を理解しないと、Tのいう「日本の製造業の強さも、日本人の器用さ、現場の強さとか向上心、等々といった日本人特有のもの」が、この日本からどんどん消えていく。既にかなりの部分がなくなっていると、誰もが危惧しているはずや。ただ、「時代の波には逆らわれない、いつまでも古い考えにこだわってたら時代遅れになる」ってことで、自らを納得させているのが、いまの国民の一般的傾向やと、俺は思っている。

今日はこの辺にしておきたい。



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Posted by minoh at 16:39│Comments(0)金融危機
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